ロバート・デ・ニーロ主演『キング・オブ・コメディ』のレビュー。
紹介
キング・オブ・コメディのストーリー
ニューヨークに住むパプキンは人気コメディアン、ジェリー・ラングフォードの大ファン。ある日、やはり熱狂的なラングフォード・ファンであるマーシャと知り合い、2人で大胆な作戦をくわだてる。なんとラングフォードを誘拐し、替わりにパプキンがTVショーに出演しようというのだ。ラングフォードを縛りあげ、TV局に向かうパプキンだが……。
引用元 – Youtubeより
キング・オブ・コメディの出演陣
役者 | 役名 |
ロバート・デ・ニーロ | パプキン |
ジェリー・ルイス | ジェリー |
ダイアン・アボット | リタ |
シェリー・ハック | キャシー |
トニー・ランドール | トニー |
感想
面白がっていたものが実は…という怖さを描く
売れっ子コメディアンを夢見る”妄想癖の強い”主人公・パプキン。
ひょんなことから、名物司会者ジェリーと接触することに成功したパプキンは、自分自身を必死に売り込み、結果としてパプキン自身も名物司会者の仲間入りを果たした。
…というのはパプキンの願望。
ジェリーは、パプキンを”大勢いる痛いファンの一人”だと判断して軽くあしらうが、パプキンは妄想をどんどんと膨らませ、自分もジェリーのような大物になれると思い込む。
パプキンは自分が”ジェリーに番組の代役を依頼される”シーンを妄想したり、一緒に人気番組に出演して意中の相手と結婚するシーンを妄想したりし、妄想が現実の何百歩も先を行く。
ほんとパプキンは「痛いヤツ」「うざいヤツ」なのだが、その無邪気で、純粋な姿はどこか微笑ましく、観ている側としては憎めない人物でもあった。
しかし、「別荘」のシーンでパプキンの見方が一変。
パプキンは、妄想の果てに「ジェリーとは友人」「ジェリーの別荘にお呼ばれした」と思い込んでしまい、本当に彼の別荘に恋人を連れてアポ無しで来てしまう。
要するに、パプキンは「妄想を現実と思い込んでしまったヤベー奴」だと判明する。
このシーンのパプキンの”薄気味悪さ”は強烈。
“面白がって見ていたヤツが実はものすごく恐ろしい人間だった”という事実は、過去を振り返れば現実世界でも起こったことなので、一気にパプキンが身近な恐怖に変わる。
結局、この件でジェリーに拒絶されたパプキンは”彼を誘拐してその座から引きずり下ろし、自分が代役を務める”という恐るべき計画を立案し、実行する…。
終わってみれば、この映画は狂ったコメディアンの喜劇というよりも、ひょんなことから狂人と接点を持ってしまうことの怖さや、その人の本質を見極めることの大切さを社会に訴える作品だった。
マーティン・スコセッシは『タクシードライバー』とはまた違った切り口から社会の闇を描ており、パプキンのような人間もいるし、トラヴィスのような人間もいるこの世界の現実を淡々と描いている。
有名人も辛いよ
この映画は有名人の辛さも映し出す。
有名人にとっては無数にいるファンの一人でも、そのファンからすれば唯一の人なのでそのファンの願いを断ると有名人への心象は最悪に。
時には「癌になっちまえ!」なんて捨て台詞を吐かれることもあるが、”有名人なので”強く言い返すことはできず、グッと堪える。
また、日々多くのファンと接触するので、パプキンのような変人と出会ってしまう可能性も高い。
有名人も辛いよ。
【+考察】”最後(ラスト)は妄想ではない”と思う理由
最初は、ラストのパプキンの成り上がりストーリーも”彼の妄想”だと思っていたが、もう一度見返してみると「これは現実なのでは?」と。
というのも、それまでのパプキンの妄想は全て彼視点で、彼を中心とした主観的なものだったのに対し、ラストの語りは全て”ニュース映像のナレーター”という第三者によるものだったから。
また、これまで必ずセットだったジェリーとは別々に映っているし。
- ラストはニュース映像のナレーターという第三者による語り
=>パプキンの妄想は全て彼視点の自己中心的なものだった - 妄想ではセットだったジェリーと別々に映っている
私としては、これまで自分視点の自己中心的な妄想をしていた人間が、突然”自分のことを伝えるニュース映像”という第三者を介した妄想をするとは思えない。
また、妄想では必ずセットだったジェリーがパプキンと別々に映っている点は、パプキンはもうジェリーとの妄想に取り憑かれていないことを表現しているのでは?と考えた。
よって、“最後のパプキンの成り上がりストーリーは現実の出来事”という考えに至った。
実は入れ子構造のストーリーなのかも
パプキンは懲役6年の懲役刑(禁固刑?)に処されることに。
服役中に彼は自らの自伝を執筆し、それが大ベストセラーになり、翌年に映画化されることも決定している。
実は本作『キング・オブ・コメディ』はその自伝が映画化されたものという設定であり、「ストーリーが入れ子構造になっているのでは?」と想像してみた。
(パプキンが執筆した自伝の映画版が本作であり、パプキンだと思っている人間”ただのパプキン役”なのかも知れない)
…と、色々な考え方ができる映画になっている。
タクシードライバーとの違い
『タクシードライバー』でも、社会に潜む狂人を演じたロバート・デ・ニーロ。
ただ、同じ狂人でも『タクシードライバー』のトラヴィスと、本作のパプキンはタイプが違う。
トラヴィスは”社会に自分の居場所はない”と感じる青年で、パプキンは”社会は自分を中心に回っている”と思い込んでいる男なので、同じ社会に潜む狂人でもまたタイプは違った。
ただ、どちらも”本人たちは何も変わっていないのに社会に受け入れられる”点では同じで、一般社会に潜む狂気を感じさせるエンディングになっている。
まとめ
一人の痛いファンを通して社会の実情を描いた怪作。
マーティン・スコセッシとロバート・デ・ニーロの相性の良さを感じさせる一作であり、とても映画だけのお話とは思えない示唆に富んだ作品だった。
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