原題 | The Ballad of Buster Scruggs |
公開日 | 2018年11月16日 |
Netflix独占配信の西部劇『バスターのバラード』のレビュー。
バスターのバラードの感想/評価
西部劇を舞台に、それぞれに訪れる死を皮肉たっぷりに描いた一作でした。
“悲劇と喜劇は紙一重”を地で行く作風になっており、終始「笑い事ではないのにどこか笑ってしまう」という絶妙なラインを外すことなく進んでいきます。
各エピソード | 短評 |
バスターのバラード | 自惚れ屋のガンマンが自身の腕前を過信しすぎた結果と、美声とともに天国に登っていくオチが素敵。 |
アルゴドネス付近 | “結局絞首刑に処されるけれど、二度目は最後に美人を拝めたのでまだマシだった”という皮肉の利いたオチが素敵 |
食事券 | “薄々分かっていたけれど、やっぱり自分は商売道具だったんだ”と悟る男の表現と、リーアム・ニーソンの罪悪感を微塵も感じていない表情との対比が素敵。 |
金の谷 | 「他のエピソードと同じでロクな結末は迎えない」という観客の予想を裏切るオチが素敵。 |
早とちりの娘 | ガンマンの英雄的な活躍と、それを台無しにする早とちりな娘と、ビリーの優しさが悲劇を呼んだオチが素敵。 |
遺骸 | 後述 |
どのエピソードも、場所や登場人物は違っても”死”に関するお話という点では同じであり、人生の不条理さと運命のいたずらを死をもって描いています。
「死」という重いテーマではありますが、この映画ではそれに至るまでの出来事を皮肉たっぷりに描いており、コーエン兄弟のユーモアが存分に味わえました。
【+考察】最後の”遺骸”は死への旅路?
それまでのエピソードでは不条理な死を描き、最後の最後で”その後に訪れる”死への旅路を描くことで一つの死生観を表現している、と私は思いました。
最後のエピソード「遺骸」では、登場人物は”死神を連想させる”御者の馬車に乗っており、画面は人間の顔から血の気が引くように青くなっていきます。
そして、相乗りしたイギリス人の二人組はまるで死を具現化した存在。
二人は自分たちをはっきりと「死神。魂を刈り取る者」と言い、ヒゲ男が死のきっかけを作り、クラレンスが死をもたらすという役割も、他のエピソードで亡くなった人たちの最期と照らし合わせることができます。
さらに、イギリス人の二人組は人間のタイプを「生きているか、死んでいるか」と言い、「生きている人間も運ぶのか?」と質問されると「そうとは言っていない」とも言い返します。
「遺骸」での一連のやり取りを観ていると、このエピソードでは(他のエピソードと同じように)それぞれの死を迎えた人たちが死後の世界に向かう様子が描かれている、という考え方に行き着きました。
前述した通り、このエピソードを経て”一つの死生観が表現される”というわけです。
余談ですが、「遺骸」も”どれだけ意見が対立し、いがみ合っても最後は同じドアを通り、同じ階段を登っていく”というオチになっており、これも皮肉が利いていました。
まとめ
西部劇を舞台に一つの死生観を描く一作でした。
それなりに重いテーマを扱っているにもかかわる、そう感じさせないバランス感覚が素晴らしく、コーエン兄弟のユーモアが炸裂した悲劇的な喜劇は見事でした。